オタクマッチングアプリ体験記②「つづき」

#2020/11/8追記:

以下に示したのは昔話である。5億年ぶりにブログを開いたらアップしていないのが残っていたので、しばしの逡巡の後インターネッツに垂れ流すことにした。

どういう意味で昔話なのかという点については、この次の記事を参照されたい。

 

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どうも、僕です。前回の続きを書いていきます。

 

アクセス履歴

顔写真とプロフィールを登録してから2,3日の間に、そこそこの数の女性が自分のプロフィールを閲覧してくれた(私が利用しているアプリでは、相手がプロフィールを閲覧したという履歴が残るようになっている)。何にせよ発信した情報に対してリアクションがあるのは嬉しいもので、見てくれたお相手のプロフィールに丁寧丁寧丁寧に目を通した。また、ありがたいことにちらほら「いいね」をいただくようになった。そして思った。

これは意外といけるのでは??

後で気づいたことだが、登録して間もないころは相手の目に留まりやすい仕組みになっている。初心者のモチベーションを高めるための仕組みだろう。ちょろいオタクくんは運営の手のひらの上で転がされていたわけだ。少しすると目に見えてアクセスは減り、通知欄に静寂が訪れた。

また、そもそも「相手のプロフィールを閲覧する」という行為自体、好意を必要としない(行為と好意をかけた高度なギャグ)。私自身、いや私の場合は特になのかもしれないが、非常に軽いノリでタップして相手のプロフィールを閲覧する。例えるならTwitterで流れてきた知らないアカウントのプロフィールや過去ツイを見に行くのと同じ感覚だ。その履歴は興味の指標となるかもしれないが、必ずしも好意を意味しない。相手は窓の外に現れた珍しい虫を見るのと同じ感覚で私のプロフィールを閲覧してくれたのかもしれない。

 

最初期に「いいね」をいただいたお相手についてはスルーさせていただいた。理由は様々だが、素性が謎すぎたり、年齢が上すぎたりしたからだ。私が利用しているアプリでは女性は(たしか)無制限に「いいね」を打てるので、中には流れ弾もあったかもしれないと思った。

 

初めてのマッチング

そんな中、一人の女性が「いいね」をくれた。その方は歳も近く、会いに行ける範囲に住んでいると予想された。容姿についての話題は一歩でも間違うと地雷を踏み抜きかねないので避けるが、快活でチャキチャキした雰囲気の方だった。趣味などで共通点があるわけでもなかったので「なぜいいねしてくれたのだろう...」と思いつつも、恐る恐る「いいね」をお返しした。そして、メッセージのやり取りをするために有料会員となった(男性はマッチングまでは無料、その後のメッセージのやりとりは課金が必要というシステム)。インターネッツのマッアプリマスターによると「男性からメッセージを送った方が良い」とのことだったので、メッセージを送ることにした。

 

メッセージの難しさ

だが何を送ればよい?助けてマッアプリマスター!最初のメッセージは肝心で、それに対する返信が返ってこないこともざらだという。私は「いいね」のお礼と簡単な自己紹介、そして相手への質問を含めた短い文章を30分ほどかけてウンウンと考え、そら行けとばかりに送信した。少しして返信が来た。最初の谷は越えた。私もお相手も今いる地域に最近越してきたばかりとのことだったので、ローカルネタで話を振ることにした。お相手は絵文字や感嘆符を混ぜながら返してくれるので、感触は悪くないのかなと思った。しかしやり取りが5往復ほど続いたころ、返信が途絶えた。こちらが質問で返さなかったので、切り時だと思ったのかもしれない。疑問形だったら返してくれたのかもしれないが、全ての返球を質問にするなんて不可能だし、そんなの嫌だろう。つまり、遅かれ早かれ終わっていたということだ。それなら区切りをつけるのは早い方がお互いにとって得策かもしれない。

一応断っておくが、この件に関してお相手を責める意思は全くない。女性は男性の何倍もアプローチを受ける構造になっているので、メッセージを捌くのは大変だと思う。このお相手も100以上「いいね」をもらっている方だったので、無理もない。

完全な余談だが、マッアプリというものは女性が手軽に承認欲求を満たすうえで良いツールかもしれない。無料で始められ、適当なプロフィールといい感じに盛れた顔写真を載せれば好意の指標たる「いいね」を集めることができる。私が眺めた限り、女性はプロフィールさえ入力して日常的にログインしていれば(正面の顔写真すらなくとも)50いいねくらいは集められるようだ。無論、そういう態度をよく思わない人は多いと思うが、個人的にはそれによって暴走しがちな承認欲求を飼いならせるならいいのでは?言いう感じだ。やっぱこの話要らなかったな。

 

何はともあれ一人目の相手とのやり取りは終わり、私はひたすら相手を探して「いいね」を送るという定常業務に戻った。しかしまあ~~「いいね」が返ってくることはない。これも仮に自分が女性で、100人くらいから「いいね」をもらっていて、その中にパッとしないオタクが紛れていたとしたら...と考えるとうなずける結果である。自然の摂理といえよう。

 

そんな中、ある日「いいね」を送った女性の一人から「いいね」が返ってきた。今度は趣味嗜好が比較的近いと思われるお相手だった。今度もまた30分くらいかけて文面をひねり出し、送信した。変更点として、「いいね」した理由(趣味嗜好の共通性)を追加してみた。返信は来るのか、そしてメッセージのラリーの記録は更新できるのか(そういうゲームではない)。

 

続く。たぶん。

オタクマッチングアプリ体験記①「はじまり」

皆さま、ごきげんよう(お嬢様)。

 

さて、8月の頭に某マッチングアプリ(以下、マッ)を始めてから1か月弱になるので、今日はここまでのあらすじを振り返っていきたいと思う。私の経験が、「マッって実際どうなの?」と思ってるポタクたちの参考になれば幸いである。なお、マッの秘訣だったりベストプラクティスだったりを期待してこの記事を読むのは完全にお門違いなので注意されたい。そういう内容をご所望の諸氏は「マッ プロフィール コツ」「マッ メッセージ 返すタイミング」などと検索をかけてもらえるとそれなりに情報が取れてくる。世の中には奇特な方々がいて、マッに心血を注ぐ中で得られたノウハウを共有してくれている。少し前までは私の検索履歴にも上のようなワードが並んでいたものだから、本当に頭の下がる思いである。まあ、おそらく彼らとは気が合わないと思うが...

 

以下では例の如く私の記憶や思考や感情をだらだらと書き連ねていきたい。後述するが、何のために(何を目指して)マッをやっているか最近よく分からなくなってきたので、私自身が頭の中を整理したいというのがこの記事を書く一番の目的かもしれない。

 

そもそもなぜ始めたのか?

まず大前提として、私は現時点で生涯独身を貫くとは決めておらず、将来的に結婚することも検討している。ここで「できるかどうか」という議論は隅においておきたい。それをすることにあまり意味はないと思うし、当たり所が悪ければ話が終わってしまうばかりか、心に深い傷を負っておうちから出られなくなってしまうからだ。

さて、結婚するためには相手が必要で、相手と出会う機会が必要である。そうした機会は私の場合、日常にはないと判断した。そこで何らかの機会を能動的に作る必要がある。曲がり角で食パンを咥えながら待機する以外の方法でだ。この手段としては色々考えられる。合コン、婚活パーティー... 色々と言った割にあまり思い浮かばなかったが、許してほしい。私がマッを選んだ理由は次のとおりである:

  • 始める精神的・金銭的ハードルが低い
  • 比較的コミュ力(というかガッツき力?)一辺倒の勝負になりにくい
  • 母集団(候補となるお相手の人数)が多く、多様性がある
  • 場当たり的でなく、時間をかけて相手を見れる

私のように積極性に欠け、容姿が優れているわけでも金を持っているわけでもない人間が、例えば婚活パーティーに赴いたところで結果は目に見えている。話しかけることも話しかけられることもなく、高い金を払ったのだからせめて腹くらいは満たして帰ろうなどと料理を取りまくり、会場のすみっこでひとりTwitterに勤しむのが関の山である。

 

いざ登録

というわけで、いくつか代表的なアプリを比較検討し、そのうちの一つに登録した。何のアプリに登録したかという情報はこの場では伏せたい。何せ個人情報を開示してナンボの世界なので、その気になればすぐに見つけ出すことが可能と思われるからだ。とはいえ、書いている内容からどのアプリかわかってしまう人はいるだろう。その場合はそっと心中お察しのうえ見逃してほしい(?)

 

会員登録を済ませ、プロフィールを入力していく。プロフィールには年齢や職業、居住地から始まり、恋愛・結婚に関する価値観、趣味などなど様々な項目がある。「プロフィールが網羅されているほどマッチングしやすいですよ!」というガイドに従うままに埋めていった。なかなか時間がかかった記憶がある。

 

そして私は、最初の関門に行き着く。ろくな顔写真がねえ!考えてみれば当たり前だ。仮に友達とご飯に行ったとして、メシ(主にデブ麺)の写真しか撮らない。オタクの日常の中に、お互いの顔写真をとる機会など存在しないのだ。しょうがなく私は、不慣れさと不気味さを露骨ににじませる自撮りと、画像フォルダから引っ張り出してきた旅行の時などの写真をアプリに献上した(のちに「知らない男性のアップの写真は、女性に恐怖感・嫌悪感を抱かせます!」というサイトを見かけ、自撮りの方は慌てて削除した。オタクの苦肉の策は、不特定多数の女性に恐怖感と嫌悪感を与えていたらしい。俺だってこんな風にはなりたくなかった)。

 

何とか顔写真とプロフィールを設定し終えた私は、少し様子を見ることにした。適当に条件を指定して検索し、表示される女性のプロフィールを眺めるなどしていた。素直に色んな人がいて面白いなと思った。気が付けば完全にTwitter感覚でやっている自分がいた。こんな調子だからダメなのかもしれない。

 

余計な文章が多くて話が一向に進まない。長くなったので続きは次回。

ポテサラと冷凍餃子と努力信仰の話②

前回のラブライブ!

ポテサラを購入する女性に対して「ポテサラくらい自分で作ったらどうだ」と言った男性。

冷凍餃子を食卓に並べた女性に対して「これは手抜きだよ」と言った男性。

その発言の裏には、どのような考えや価値観があったのか?取材班はその心理に迫る―

 

前回は相手にとってのコストを過小評価してしまったのではないか、という話をした。

 しかしそれだけでは相手を揶揄するような発言にはつながらない気がするのである。もう一つ、「作れるものは手間暇かけて自分で作るべきだ」という価値観が影響しているのではないか。つまり、

  1. 「ポテサラや餃子を作ることはそれほど大変ではない。」
  2. 「自分でできるなら自分でやるべきだ。」

この2つの考えが共存していたからこそ件の言葉が男性の口を突いて出たのだと思う。

 

私は2については1より根が深いと思っている。2はいわゆる努力信仰の一種で、「努力することや苦労することは美徳で、楽をすることや手間を省くことは悪徳である」という価値観だ。こうした価値観は無意識のうちに私たちの心に染みついている節があり、そして様々な場面で顔を覗かせる。

 

だが、楽をすることや手間を省くことの一体何が”悪い”のだろうか?省力化・効率化は科学や技術の発展がもたらした恩恵であり、これらを受け入れることで時間や労力を削減できる。限られた時間や労力を”やらなければいけないこと”より”やりたいこと”に充てられるようになる。なんと幸せなことではないか。

 

もちろん、あらゆる場面で手を抜け、楽をしろと言っているわけではない。たとえば人の宿題を丸写しすることは適切な手抜きとはいえない。習ったことをもとに自分の頭で考えて、自分の答えを表現する。そういった過程に意味があるからだ。大切なのは目的を意識し、それを実現するうえで重要なことについては努力し、そうでないことについては適切に手を抜く(省力化する)ことだと思う。料理の例でいえば、茹でたじゃがいもをマッシュしたり餡を餃子の皮でせっせと包んだりする作業は、誰にとってどういう意味で重要なのだろうか?おいしい料理ができるなら、できるだけ低コストで済んだほうが幸せだと思うのだが...(もちろん、自分自身が手間をかけたくてそうしている人を否定するつもりは全くない。)

 

料理における省力化に対して反論として考えられるのは、「惣菜や冷食はおいしくない。」という意見である。料理はおいしいほうが良い。確かにおいしくないのは(それが単なる決めつけや偏見でなく真剣な感想であるならば)問題だ。この問題を解決する方法は一つ。「コストを払う」ことだ。それはもっと高くておいしいものを買えるようにお金を稼いだり、奥さんが手間暇かけられるだけの十分な時間を作ってあげたり、あるいはもっとシンプルに―自分でつくることだ。横柄なクレーマーに身を落とすのではなく、問題を解決するための実行可能な策を考えたほうが良い。

 

さて、ポテサラ事件と冷凍餃子事件の背景に、

  1. 相手にとってのコストを過小評価してしまう傾向
  2. 努力信仰

があるのではないかという話を長々と、かつ大げさにしてきた。

1の対策としては自分の経験則を押し付けないこと、そして経験がなくてわからないなら一度自分で経験することが大切である。

2の対策としては、目標を意識し、「その努力(コスト)は必要か?」と問いかけること。そして必要ならば、相手に押し付けるのではなく自分もそのコストを負うことが大切だろう*1

 

個人的にはポテサラよりも餃子よりも二郎が食べたいです。終わり。

*1:また、今回の話題とはやや逸れるが「努力はすべてを解決する」という類の考え方には注意が必要だ。現実は努力だけで解決できる場面は限られている。にもかかわらず努力信仰にすがってしまうと、解決できない原因を自分の努力不足に帰してしまい、自身を追い詰めてしまうことにつながりかねない。必要な努力を適切な方向に向けることが大切なのだろう。

ポテサラと冷凍餃子と努力信仰の話①

最近Twitter界隈を賑わせたトピックにポテサラ事件と冷凍餃子事件がある(事件というほどのことではない)。わからない方はTwitterなどで調べていただければわかると思うので詳細は割愛するが、ざっくり言うと、男性が食事を用意する女性に対して「ポテサラくらい自分で作ったらどうだ」とか「冷凍餃子は手抜き」とか言って議論を呼んでいる(というか、発言した男性に対して非難の声が集まっている)というお話だ。

 

槍玉に挙げられている男性たちはなぜこのようなことを口走ってしまったのだろうか?私はこの背景には2つの考えや価値観があると思う。

 

1つ目の考えは、「ポテサラや餃子なんて簡単に作れるだろ」とコストを過小評価する考えだ。ここでのコストというのはお金というより時間や労力を指している。料理に限らず、人間は他人がやる仕事に対してコストを過小評価しがちだと思う。ではなぜそう考えてしまうのかというと、2つ理由が思い浮かぶ。

1つ目は、「自分にとっては簡単だ(あるいはそれほど大変ではない)」からだ。要は「私ができたんだからあなたにもできるでしょう?」という理屈だ。だが残念ながら私はあなたではない。そのロジックはあまりにも乱暴である。もし夫が「自分なら餃子づくりくらい朝飯前さ」*1という考えから「冷凍餃子なんて手抜き」と言うならば、次のように対応すればよいだろう。

 

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「これは冷凍餃子。手抜きだよ。」

「そうね。私はあなたと違って手際よく餃子を包む才能には恵まれなかったようだから... そしたら今度はあなたが手作り餃子を作ってくれない? あなたにとって餃子づくりは朝飯前なわけだし、そうすれば少ないコストで最大の利益(さぞおいしい手作り餃子)が得られる。私は浮いた時間を自分や家族のために使える。適材適所の分業によって負荷の平準化ができるなんて最高じゃない?」

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人に依頼する仕事のコストを安く見積もってしまう理由はもう1つ考えられる。単純に経験がないからだ。ろくに自分で料理をした経験がないから、「ポテサラや餃子なんて簡単に作れるだろ」と思ってしまう。まあ、今回のケースはおそらくこちらが原因だろう。

こうした経験不足によるコストの見誤りも料理に限らずよくある。日常茶飯事だ。無茶な納期・予算で仕事を依頼し、文句をたれる顧客はごまんといる。会社ではそんな顧客にうんざりしているのに、家では自分がそんな顧客になっていないだろうか?

経験不足による認識のずれを改めるには経験するのが一番だ。一度作ってみればよい。そのうえでやっぱり簡単だと感じたなら今度から自分が作ればよいし、大変だと感じたなら認識を改めるだろう。そういうわけで、いろいろ経験してみることは人の苦労を理解し、寛容になることにつながると思う。

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「これは冷凍餃子。手抜きだよ。」

「そうね。確かに手抜きね。でも餃子の作り方は知ってる?まず野菜を刻んでひき肉と混ぜて餡を作る。それから適切なサイズの餡を捏ねてきれいに皮に包んで...」

「家族全員分作るとしたら1時間以上かかるわね。...今度あなた作ってみる?」

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余談だが私はポテサラも餃子も作ったことがある。しかし、少なくとも普段使いの料理として作りたくはない。ポテサラは手間がかかるのもさることながら、引くほどマヨネーズを入れることに罪悪感を感じてしまう。お店のは食べるけど。まあ作る過程が見えなければセーフなのだ(ガバガバ理論)。

また餃子に関しては餡が想像以上に多くできてしまい、「餡が...なくならねェ!」と言いながら23時ごろまで包み続けたことがある(それ以来作っていない)。あれは料理というよりは労役であった。

 

今回はポテサラ事件と冷凍餃子事件について、問題となった発言の背景について考えた。すなわち自分の経験(自分は簡単にできた or 自分はやったことがない)に基づいて相手にとってのコストを過小評価してしまうというものだ。自分なら簡単にできるというならぜひその才能を発揮してほしいし、やったことがないならまずやってみろという話である。

 

次回は背景にあると思われる価値観のもう一つであり、おそらく多くの人の心に根付いている「努力信仰」について書いてみたいと思う。

*1:朝から餃子はさすがにヘビーだと思うが...

「”普通”の人生を送って”普通”に幸せになりたいです。どうしたらいいですか?」

こんばんは。久しぶりの更新です。前の更新が3/30だったので「社会人」になってから初めてのブログということになります。そう考えると早いものですね。「社会人」になったからにはこれまで通り品行方正で公明正大、公序良俗に反しない文章を書いていくのでよろしくお願いいたします(は?)。

 

「社会人っておかしい言葉だよな。」

と、いつか誰かがTwitterで言っていたのを見た記憶があります。「社会人=社会を構成する人」でその肩書が労働者に与えられるものだとするならば、働いていない人たち(子供や老人も含む)は「”非”社会人=社会を構成していない人」になるのか!?という話です。

まあこれは単なる言葉遊びなんですが(Twitterではなぜかこの話題が炎上気味だった気がします。ばあちゃん、Twitterはこわいところです。)、普段気に留めないけれど少し立ち止まって考えてみると「不思議だね(ダネフシャ!)」と思えることがそこら中に転がっているのだと思います。

 

さて、皆さんには「人生の設計図」とか「ライフプラン」みたいなものってありますか?「○○歳までに結婚して、子供は××人欲しくて...」的なアレです。社会通念的には持っておいた方が良いと言われがちですね。まあ、私は特にないんすけど。

 

こんな話をし始めたのにはワケがあります。会社に入ってから3か月(週5出勤は6月からなので”本番”は1か月)が経過した今日この頃、新しい生活にも慣れ始め地に足がつくような感触を得ます。人は余裕が生まれると目線を少し遠くまで向けることができるようになります。それで最近、今後の人生というやつについてぼんやり考えることが多くなってきたというわけです。

 

「この生活を40年間...?え、無理じゃね?」

「周りはそう遠くない将来結婚したり子供産まれたりするんだろうな...」

「5年後俺はどうしてる?10年後は?20年後は?」

 

といった具合に、とりとめもない考えが心の奥底からポコポコと湧き上がってきます。

 

「人生とはどういうものか?」というお題を出した時に

「就職して、結婚して、子供が生まれて、家を買って...」

というストーリーを思い浮かべる人は多いはずです。どこで誰に教わるともなく(おそらく周りの大人たちがそうだったからだろう)、私たちの多くは「これが”普通”の人生だ。」というイメージを持っているのではないのでしょうか。同時に、「普通が一番」などという価値観とも関連して、「このような”普通”の人生を歩むことこそ”幸せ”なのだ」という風潮が根強くあるように感じます。結婚することを「幸せになる」と表現したりするのはこうした風潮を反映しているのではないでしょうか。
そこで、このような人生のテンプレートを”普通で幸せな人生モデル”と呼ぶことにしましょう。

 

実際、”普通で幸せな人生モデル”に沿った生き方をしていて幸せな人はごまんといるでしょうし、傍から見て幸せに映ることが多いです。私が今住んでいるところの近くに一軒家が整然と立ち並ぶエリアがあるのですが、そのあたりを通る度に毎回「幸せそうだな...」と感じます。どの家にも一台以上の車が止まり、広くはないけれど小綺麗に手入れされた庭があり、ベランダには所せましと洗濯物がひしめき合い、子供たちの騒ぐ声が聞こえてくる... もし自分がこの家の主で、週末をこの家で過ごしていたならば、きっと「自分は幸せだ」と感じるのではないか?

 

ただ、ここで注意しなければならないのは、この”普通で幸せな人生モデル”はあくまでモデルの一つでしかなく、決して万人が目指すべき正解などではないということです。”普通で幸せな人生モデル”に乗っていても「幸せじゃない」と感じている人はいるでしょうし、違うモデルに乗り換える人もいます。反対に、全く異なる人生を送る人の中にも「幸せだ」(あるいは「まあ、悪くはないか」)と感じる人はたくさんいるはずでしょう。そもそも人によって幸せの形は千差万別なのに、皆が皆同じような生き方をして幸せになれるわけないでしょうに。

 

だから、私たちは”普通で幸せな人生モデル”とは違う生き方をしている人を見て憐れんだり貶めたり、勝手に”落伍者”の烙印を押したりするべきではない。また、自分が”普通で幸せな人生モデル”とは異なる道を歩んでいるからと言って卑下したり自己の価値を否定したり運命を呪ったりするべきではない。これは「優れている/劣っている」とか「成功している/失敗している」という話でなく、「選ぶ/選ばない」「向いている/向いていない」という話なのだ。私はそう思います。

 

”普通で幸せな人生モデル”は幸せを約束する切符などではない。それを理解したうえで選ぶも選ばぬも自分次第。そもそも”普通”も”幸せ”も常にあいまいで相対的な概念なので、”普通の幸せ”なんてものはほぼ虚構の類だと思います。そんなものに惑わされず縛られず、個人が「自分にとっての”幸せ”って何だろう?」と問いながらそれを追求できる世の中になってほしいなあ、と思います。

 

今日はそんな感じ。

過ぎゆくモラトリアムに漂う

みなさん、こんにちは/こんばんは。2日後に労働者になる鮭です。ま、すぐ「退職まであとN日」になるかもだけど。はははっ!

 

スマホを見ればテレビをつければ新聞を開けばコロナコロナの大合唱...

辟易としてくる今日この頃ですね。ちなみに実家のストーブはCORONA製でした。アツい風評被害だな...(ストーブだけに)さて、皆さんはいかがお過ごしですか?

 

私はと言えば人生で最もニートに近い時間を過ごしているかもしれません。学校にも行ってなければ仕事もしていない。まさに最後の猶予期間(モラトリアム)といえるでしょう。4月からは何やかんやでどうせブログの更新なんて後回しになると思うので(もうなってるけどね)、ここらで回顧録として近況を記しておきたいと思います。

 

2月

2月はまあまあ活動的だったと思います。私にしては。

2月上旬に修士論文の発表、その後追加の解析→スキー(1泊2日)→旅行①(4泊5日)→研究データまとめ&引き継ぎ→旅行②(5泊6日)。遊びすぎですね、はい。生き急いでるのか?

発表は緊張から手が震え、スライドを示すレーザーポインターがビヨビヨビヨビヨとなった以外は大丈夫でした。ま、修論発表くらいならボコられることはあまりないと思います。質疑時間短いし。その後のスキー、旅行×2はどれも楽しかったです。個々のイベントについてブログ書こうと思えばできるんだろうけど、事細かに書こうとして大変になりそうなので書きません。できることとできないことの間にできるけど疲れることがたくさんある。

 

3月

3月頭に旅行②から戻ってきた後、私はすぐに引越の準備に追われることとなりました。ほとんどゼロからのスタートだったので結構大変でした。誰だよ後回しにしたやつ... 

いや、荷物詰めるだけならそうでもなかったと思うんですけど、部屋の掃除がくそだるかったですね。「掃除大変なんだよ~」と研究室の同期に話したら、「え、そんな汚いの? やば笑(意訳)」と言われました。つらたん。

過酷な引っ越し作業を終えて実家に帰ってきたのが3月の第2週。ここからはもう子供部屋おじさんです。そういえば子供部屋おばさんって聞かないですね。比較的イベントが多かった2月が”動”の月だとしたら3月(第1週を除く)は”静”の月でしょう。ポケットモンスター”動”の2月/”静”の3月。

3月第2週以降、何をやって過ごしていたのかというとえー...ほとんどゲームとアニメ視聴が占めている気がするな...まあ、それ以外はおべんつよと荷物の整理(断捨離)と筋トレとネットサーフィンみたいな感じでしょうか。悠々自適、あるいはやりたい放題というところです。お勉強といっても自分の興味からやっているものなので遊びみたいなもんですが。ちなみに会社から「コツコツやっといてね♡」と言われた資格試験の勉強は全くしてましぇ~んw あと、「モノを減らすぞ」という意気込みからメルカリのアカウントを作りました(作っただけです。形から入るタイプなので)。

ずっと実家にいるのはさぞ飽きるだろうと思っていたけど割とやること(やりたいこと)は尽きませんでした。おそらく根が陰キャなので家籠りスキルが平均より高いのだろうと自己分析しています。就活だったら一発で落とされそうな自己分析結果だな。

 

 そんなこんなで春休みも終わろうとしています。完全に結果論ですが、3月に旅行やらライブやらの予定を入れていなかったのはラッキーでした。それにしても、初めて「中国で新型肺炎」のニュースを見た時には、ここまで長期間にわたって甚大な影響を及ぼすとは想像していませんでした。この感覚は2011年の震災の時に似ています。時間が経つにつれて事態の深刻さが明らかになっていく感じ。しかも今回は、現象自体が持続的かつグローバルな点と、復興策としてただちに経済活動の再開を促すわけにもいかないという点が難しそうです。日常はいつになったら戻るのでしょうか。

 

暗い話題はお腹いっぱいなのでここまでにしましょう。実感がわきませんがもうすぐ新年度なのですね。6年ぶりの新生活の始まり、門出(KADODE)ってやつです。外に出てみたらいつもと変わらないぽかぽかとした春の陽気がそこにはありました。恐れ、憂い、憤る人々を尻目に今日も地球は回ります。春を心待ちにしていたような小鳥のさえずりや蟲たちのうごめき、草花の目覚めに自粛はありません。私は少しほっとした心持ちになりました。ああ、冷静に考えてみたらこれから何十年もサラリーマンやっていくとしたら定年までもう春休みなんてものは訪れないんですよね。不労所得で暮らしてエ~~

 

まあ、もはや終身雇用の時代ではないし、「合わなかったらやめよw」という昭和のおじさんたちが聞いたら喝を入れたくなるような気楽なスタンスでやっていきたいと思っています。よろしくお願いします。そういえばビジネス関連のメールって高い確率で「よろしくお願いいたします。」で終わりますよね。で、たまに依頼事項があるわけでもないのにそれで終わってるメールが来て「何が?」ってなりますよね。

 

今日はこの辺でおしまいにしたいと思います。次がいつになるかはわかりませんが。冗長でまとまりのない話をまとめるとSHIROBAKOを見よう」ということです。放送は2014年~2015年でしたが、現在劇場版が公開中です(もう公開終わるかも...)。

shirobako-movie.com

ジャンルはいわゆる”お仕事系”ですが、働いてる人はもちろん、そうでない人も”社会”とか”組織”を経験したことがある人なら共感できる場面が数多くあると思います。そして共感できるとつい感情移入してしまう、心に刺さる。「将来何をやりたい?/どうありたい?」「自分は何でこの仕事をしているの?」「ずっとここにいて、この仕事を続けていていい?」「周りはみんな進んでいるのに、自分だけ取り残されたような感じ」「2つの要求の間で板挟みになって、にっちもさっちもいかない」「頑張ってるのに、正解がわからない」ー生きていくうえで誰もが一度は行き当たるような悩みや不安、挫折に登場人物たちが向き合い、乗り越える(あるいは何とか折り合いをつけて前に進んでいく)過程が描かれているので、見ている側もつらかったり感動したりします。そして見終わった後には「よし、頑張ってみるか」と少し前向きになれる、そんな作品だと思います。もっと早く見れば良かった。

 

amazon prime videoのレビューの様相を呈してきたので今度こそ終わります。SHIROBAKOおすすめなので自宅待機のお供にでも是非。

よろしくお願いいたします。

研究のやる気スイッチ

こんばんは。

 

えー、最近少しバタバタしていましたが(当社比)、体感としてひと山越えたというところですかね。まあ、この先にもうひと山どころか山脈がそびえ立っているような気がしますが、それは見なかったこととして。

 

さて、前回はブロックチェーン及びAI関連技術が今後の世界及び日本の金融システムの在り方をいかにして変えていくのかということについてミクロ経済学の視点を交えて論じましたが(え?)、今回は趣向を変えて「もうすぐ研究の世界から引退する一学生の目から見た研究」について、特に「アカデミアに残らない("D"の意思を継がない)学生がどういうモチベーションで日々の研究に取り組んだらよいか」ということについて例のごとくだらだらと書きたいと思います。

 

物事に取り組むうえで、それがもつ意義や価値、目的を考えることは重要です。自分にとって何の意味もない、何のメリットもない(と自分が感じる)ことを続けるのは多くの人間にとって苦痛ですし、往々にして長続きしないと思われます。「ダンベル何キロ持てる?」を見て漫然と筋トレを始めるよりも、「海に行くために体を引き締めたい」とか「女の人にモテたい」といった目標があった方が、モチベーションをもって継続できそうな気がします。いや、僕はまだ続けてますよ?

 

研究ももちろん例外ではありません。教員やDの先輩方は「その研究の社会的意義を考えよ」とか、あるいは「その研究の中での、それぞれの実験・解析の目的を考えよ」などと耳にタコどころかイカができるくらいにおっしゃるかもしれません。でもそれに比べ、「その研究をやる自分にとっての意義・目的(大げさな言い方をすれば、”この経験が自分の今後の人生に何をもたらすのか、どういう役に立つのか”)」についてはあまり語られないように感じます。何のために研究をするの?研究をすると何が嬉しいの?もちろん正解なんてないしこうあるべきというのもないと思いますが、自分なりに考えておくことが良いことのように思いました。お金を払ってまでこれをしなければならない、他ならぬ自分のために。

 

まずは何といっても卒業して学位を取得することでしょう。こんなところで足踏みしてはいられない、何としてでも卒業してやるという強い気持ち。まあ実際、お仕事に比べると大きな責任もないし時間の使い方もゆったりとしたもので、ぬるま湯につかっているようなものなんでしょうが(研究室による)、それでもこの生活をもう一年はゴメンなわけです。

 

その次に私の中でモチベーションにしているのが、研究を通して色々お勉強するということです。日々の「調べる、考える、試行錯誤する、解決する」というプロセスの中で知的好奇心を満たすと同時に、少しずつ知っていること、できることを増やしていけたらいいなという考えです。感覚としては貯金に似ているかもしれない。研究者の世界は実績で測られる競争社会ですが、研究を最終的な結果とそれを得るまでの過程に分けて考えた時に、もうすぐ研究の世界から離れる自分にとって報酬になるのはどちらかというと後者だと思うんですね。(ま、指導教官からしてみれば結果ファーストなんでしょうけど。)もちろん、学生時代の専門をそのまま活かすような形で就職をする人にとっては状況は違うと思いますが、もしそうではない場合、頑張って出した結果そのものが今後の人生においてどれほどの価値を持つのでしょうか?私にはわかりません...

1年間や3年間の中で得られるものが専門知識なのかもっとジェネラルな知識なのか、はたまた資料作成スキルなのかプレゼンスキルなのかはわかりません。ただ、今後自分の身を助けてくれる...かもしれない武器や装備が手に入るんだとしたら、まあ必ずしも無駄ではないのかな。もし役に立たなかったとしても、レベルアップした感は幾ばくかの自己肯定感につながるかもしれないし。

 

雑にまとめると、私は主に「絶対に卒業するぞ」という気持ちと「いろいろ勉強するぞ」という気持ちで毎日学校に行っています。中には、純粋に研究楽しい!研究楽しすぎワロタ!止めらんねえこの想い!!研究ラブ!!!という人もいるのでしょう。うらやましい限りです。そんな人はぜひ研究者の道に進み、沈みゆくこの国の希望となってほしいものですね(他人事)。何やかんや研究者に一番必要なものって専門分野に対する好奇心とか情熱だと思うので。私には欠落しているやつですね。何かに興味を持ち続け、その道を究めるというのは並みの人間には難しいことで、それができるということ自体類まれなる才能なのだと私は思います。ま、これは研究に限った話ではないでしょうが。

 

今回はこの辺で。あ、追記ですがこの記事の大部分を書いてから1か月ほど経過してしまっているので今はもう次の山の中にいます。修論代行業者の方はお気軽にご連絡ください。それでは。