ポテサラと冷凍餃子と努力信仰の話②

前回のラブライブ!

ポテサラを購入する女性に対して「ポテサラくらい自分で作ったらどうだ」と言った男性。

冷凍餃子を食卓に並べた女性に対して「これは手抜きだよ」と言った男性。

その発言の裏には、どのような考えや価値観があったのか?取材班はその心理に迫る―

 

前回は相手にとってのコストを過小評価してしまったのではないか、という話をした。

 しかしそれだけでは相手を揶揄するような発言にはつながらない気がするのである。もう一つ、「作れるものは手間暇かけて自分で作るべきだ」という価値観が影響しているのではないか。つまり、

  1. 「ポテサラや餃子を作ることはそれほど大変ではない。」
  2. 「自分でできるなら自分でやるべきだ。」

この2つの考えが共存していたからこそ件の言葉が男性の口を突いて出たのだと思う。

 

私は2については1より根が深いと思っている。2はいわゆる努力信仰の一種で、「努力することや苦労することは美徳で、楽をすることや手間を省くことは悪徳である」という価値観だ。こうした価値観は無意識のうちに私たちの心に染みついている節があり、そして様々な場面で顔を覗かせる。

 

だが、楽をすることや手間を省くことの一体何が”悪い”のだろうか?省力化・効率化は科学や技術の発展がもたらした恩恵であり、これらを受け入れることで時間や労力を削減できる。限られた時間や労力を”やらなければいけないこと”より”やりたいこと”に充てられるようになる。なんと幸せなことではないか。

 

もちろん、あらゆる場面で手を抜け、楽をしろと言っているわけではない。たとえば人の宿題を丸写しすることは適切な手抜きとはいえない。習ったことをもとに自分の頭で考えて、自分の答えを表現する。そういった過程に意味があるからだ。大切なのは目的を意識し、それを実現するうえで重要なことについては努力し、そうでないことについては適切に手を抜く(省力化する)ことだと思う。料理の例でいえば、茹でたじゃがいもをマッシュしたり餡を餃子の皮でせっせと包んだりする作業は、誰にとってどういう意味で重要なのだろうか?おいしい料理ができるなら、できるだけ低コストで済んだほうが幸せだと思うのだが...(もちろん、自分自身が手間をかけたくてそうしている人を否定するつもりは全くない。)

 

料理における省力化に対して反論として考えられるのは、「惣菜や冷食はおいしくない。」という意見である。料理はおいしいほうが良い。確かにおいしくないのは(それが単なる決めつけや偏見でなく真剣な感想であるならば)問題だ。この問題を解決する方法は一つ。「コストを払う」ことだ。それはもっと高くておいしいものを買えるようにお金を稼いだり、奥さんが手間暇かけられるだけの十分な時間を作ってあげたり、あるいはもっとシンプルに―自分でつくることだ。横柄なクレーマーに身を落とすのではなく、問題を解決するための実行可能な策を考えたほうが良い。

 

さて、ポテサラ事件と冷凍餃子事件の背景に、

  1. 相手にとってのコストを過小評価してしまう傾向
  2. 努力信仰

があるのではないかという話を長々と、かつ大げさにしてきた。

1の対策としては自分の経験則を押し付けないこと、そして経験がなくてわからないなら一度自分で経験することが大切である。

2の対策としては、目標を意識し、「その努力(コスト)は必要か?」と問いかけること。そして必要ならば、相手に押し付けるのではなく自分もそのコストを負うことが大切だろう*1

 

個人的にはポテサラよりも餃子よりも二郎が食べたいです。終わり。

*1:また、今回の話題とはやや逸れるが「努力はすべてを解決する」という類の考え方には注意が必要だ。現実は努力だけで解決できる場面は限られている。にもかかわらず努力信仰にすがってしまうと、解決できない原因を自分の努力不足に帰してしまい、自身を追い詰めてしまうことにつながりかねない。必要な努力を適切な方向に向けることが大切なのだろう。