「”普通”の人生を送って”普通”に幸せになりたいです。どうしたらいいですか?」

こんばんは。久しぶりの更新です。前の更新が3/30だったので「社会人」になってから初めてのブログということになります。そう考えると早いものですね。「社会人」になったからにはこれまで通り品行方正で公明正大、公序良俗に反しない文章を書いていくのでよろしくお願いいたします(は?)。

 

「社会人っておかしい言葉だよな。」

と、いつか誰かがTwitterで言っていたのを見た記憶があります。「社会人=社会を構成する人」でその肩書が労働者に与えられるものだとするならば、働いていない人たち(子供や老人も含む)は「”非”社会人=社会を構成していない人」になるのか!?という話です。

まあこれは単なる言葉遊びなんですが(Twitterではなぜかこの話題が炎上気味だった気がします。ばあちゃん、Twitterはこわいところです。)、普段気に留めないけれど少し立ち止まって考えてみると「不思議だね(ダネフシャ!)」と思えることがそこら中に転がっているのだと思います。

 

さて、皆さんには「人生の設計図」とか「ライフプラン」みたいなものってありますか?「○○歳までに結婚して、子供は××人欲しくて...」的なアレです。社会通念的には持っておいた方が良いと言われがちですね。まあ、私は特にないんすけど。

 

こんな話をし始めたのにはワケがあります。会社に入ってから3か月(週5出勤は6月からなので”本番”は1か月)が経過した今日この頃、新しい生活にも慣れ始め地に足がつくような感触を得ます。人は余裕が生まれると目線を少し遠くまで向けることができるようになります。それで最近、今後の人生というやつについてぼんやり考えることが多くなってきたというわけです。

 

「この生活を40年間...?え、無理じゃね?」

「周りはそう遠くない将来結婚したり子供産まれたりするんだろうな...」

「5年後俺はどうしてる?10年後は?20年後は?」

 

といった具合に、とりとめもない考えが心の奥底からポコポコと湧き上がってきます。

 

「人生とはどういうものか?」というお題を出した時に

「就職して、結婚して、子供が生まれて、家を買って...」

というストーリーを思い浮かべる人は多いはずです。どこで誰に教わるともなく(おそらく周りの大人たちがそうだったからだろう)、私たちの多くは「これが”普通”の人生だ。」というイメージを持っているのではないのでしょうか。同時に、「普通が一番」などという価値観とも関連して、「このような”普通”の人生を歩むことこそ”幸せ”なのだ」という風潮が根強くあるように感じます。結婚することを「幸せになる」と表現したりするのはこうした風潮を反映しているのではないでしょうか。
そこで、このような人生のテンプレートを”普通で幸せな人生モデル”と呼ぶことにしましょう。

 

実際、”普通で幸せな人生モデル”に沿った生き方をしていて幸せな人はごまんといるでしょうし、傍から見て幸せに映ることが多いです。私が今住んでいるところの近くに一軒家が整然と立ち並ぶエリアがあるのですが、そのあたりを通る度に毎回「幸せそうだな...」と感じます。どの家にも一台以上の車が止まり、広くはないけれど小綺麗に手入れされた庭があり、ベランダには所せましと洗濯物がひしめき合い、子供たちの騒ぐ声が聞こえてくる... もし自分がこの家の主で、週末をこの家で過ごしていたならば、きっと「自分は幸せだ」と感じるのではないか?

 

ただ、ここで注意しなければならないのは、この”普通で幸せな人生モデル”はあくまでモデルの一つでしかなく、決して万人が目指すべき正解などではないということです。”普通で幸せな人生モデル”に乗っていても「幸せじゃない」と感じている人はいるでしょうし、違うモデルに乗り換える人もいます。反対に、全く異なる人生を送る人の中にも「幸せだ」(あるいは「まあ、悪くはないか」)と感じる人はたくさんいるはずでしょう。そもそも人によって幸せの形は千差万別なのに、皆が皆同じような生き方をして幸せになれるわけないでしょうに。

 

だから、私たちは”普通で幸せな人生モデル”とは違う生き方をしている人を見て憐れんだり貶めたり、勝手に”落伍者”の烙印を押したりするべきではない。また、自分が”普通で幸せな人生モデル”とは異なる道を歩んでいるからと言って卑下したり自己の価値を否定したり運命を呪ったりするべきではない。これは「優れている/劣っている」とか「成功している/失敗している」という話でなく、「選ぶ/選ばない」「向いている/向いていない」という話なのだ。私はそう思います。

 

”普通で幸せな人生モデル”は幸せを約束する切符などではない。それを理解したうえで選ぶも選ばぬも自分次第。そもそも”普通”も”幸せ”も常にあいまいで相対的な概念なので、”普通の幸せ”なんてものはほぼ虚構の類だと思います。そんなものに惑わされず縛られず、個人が「自分にとっての”幸せ”って何だろう?」と問いながらそれを追求できる世の中になってほしいなあ、と思います。

 

今日はそんな感じ。