ポテサラと冷凍餃子と努力信仰の話①

最近Twitter界隈を賑わせたトピックにポテサラ事件と冷凍餃子事件がある(事件というほどのことではない)。わからない方はTwitterなどで調べていただければわかると思うので詳細は割愛するが、ざっくり言うと、男性が食事を用意する女性に対して「ポテサラくらい自分で作ったらどうだ」とか「冷凍餃子は手抜き」とか言って議論を呼んでいる(というか、発言した男性に対して非難の声が集まっている)というお話だ。

 

槍玉に挙げられている男性たちはなぜこのようなことを口走ってしまったのだろうか?私はこの背景には2つの考えや価値観があると思う。

 

1つ目の考えは、「ポテサラや餃子なんて簡単に作れるだろ」とコストを過小評価する考えだ。ここでのコストというのはお金というより時間や労力を指している。料理に限らず、人間は他人がやる仕事に対してコストを過小評価しがちだと思う。ではなぜそう考えてしまうのかというと、2つ理由が思い浮かぶ。

1つ目は、「自分にとっては簡単だ(あるいはそれほど大変ではない)」からだ。要は「私ができたんだからあなたにもできるでしょう?」という理屈だ。だが残念ながら私はあなたではない。そのロジックはあまりにも乱暴である。もし夫が「自分なら餃子づくりくらい朝飯前さ」*1という考えから「冷凍餃子なんて手抜き」と言うならば、次のように対応すればよいだろう。

 

-----

「これは冷凍餃子。手抜きだよ。」

「そうね。私はあなたと違って手際よく餃子を包む才能には恵まれなかったようだから... そしたら今度はあなたが手作り餃子を作ってくれない? あなたにとって餃子づくりは朝飯前なわけだし、そうすれば少ないコストで最大の利益(さぞおいしい手作り餃子)が得られる。私は浮いた時間を自分や家族のために使える。適材適所の分業によって負荷の平準化ができるなんて最高じゃない?」

-----

人に依頼する仕事のコストを安く見積もってしまう理由はもう1つ考えられる。単純に経験がないからだ。ろくに自分で料理をした経験がないから、「ポテサラや餃子なんて簡単に作れるだろ」と思ってしまう。まあ、今回のケースはおそらくこちらが原因だろう。

こうした経験不足によるコストの見誤りも料理に限らずよくある。日常茶飯事だ。無茶な納期・予算で仕事を依頼し、文句をたれる顧客はごまんといる。会社ではそんな顧客にうんざりしているのに、家では自分がそんな顧客になっていないだろうか?

経験不足による認識のずれを改めるには経験するのが一番だ。一度作ってみればよい。そのうえでやっぱり簡単だと感じたなら今度から自分が作ればよいし、大変だと感じたなら認識を改めるだろう。そういうわけで、いろいろ経験してみることは人の苦労を理解し、寛容になることにつながると思う。

-----

「これは冷凍餃子。手抜きだよ。」

「そうね。確かに手抜きね。でも餃子の作り方は知ってる?まず野菜を刻んでひき肉と混ぜて餡を作る。それから適切なサイズの餡を捏ねてきれいに皮に包んで...」

「家族全員分作るとしたら1時間以上かかるわね。...今度あなた作ってみる?」

-----

余談だが私はポテサラも餃子も作ったことがある。しかし、少なくとも普段使いの料理として作りたくはない。ポテサラは手間がかかるのもさることながら、引くほどマヨネーズを入れることに罪悪感を感じてしまう。お店のは食べるけど。まあ作る過程が見えなければセーフなのだ(ガバガバ理論)。

また餃子に関しては餡が想像以上に多くできてしまい、「餡が...なくならねェ!」と言いながら23時ごろまで包み続けたことがある(それ以来作っていない)。あれは料理というよりは労役であった。

 

今回はポテサラ事件と冷凍餃子事件について、問題となった発言の背景について考えた。すなわち自分の経験(自分は簡単にできた or 自分はやったことがない)に基づいて相手にとってのコストを過小評価してしまうというものだ。自分なら簡単にできるというならぜひその才能を発揮してほしいし、やったことがないならまずやってみろという話である。

 

次回は背景にあると思われる価値観のもう一つであり、おそらく多くの人の心に根付いている「努力信仰」について書いてみたいと思う。

*1:朝から餃子はさすがにヘビーだと思うが...