結婚し、子供を授かり、幸せな家庭を築きましたとさ。おしまい。

最近めっきり寒くなってきた。

この時期になるとオフトゥンがますます好きになる。

オフトゥンに入ると「外は寒いのにここは何て暖かいんだ... ここは聖域、私は守られている」という気持ちになるので好きだ。そして毎朝、オフトゥンと私を引き離す労働に対して憎悪の炎を燃やしている。

 

先日、会社の同じ事業部の同期と飲みに行ってきた。話題は主に"人生"の話だった。結婚はいつするか。子供はいつ作るか。マイホームはどうするか。皆そっちの方向に向けて舵を切り始めてるのね~と驚きつつ、こちらとしてはその分野にコメントできる知見を持ち合わせていないので、相槌をうちながらひたすら料理を口に運んでいた。

(ちなみに、私以外の同期は全員既婚もしくは結婚秒読みとのことらしい。ひょえー。)

 

おそらく、同期はずーっと今の会社に勤めあげるつもりなのであろうと思った。結婚も子作りもマイホームも、会社との癒着を強めるイベントである(いずれも経済的な安定性を要求し、職を変えることのハードルを上げるから)。まさか目の前の人間が、3~5年くらいしたら会社を辞めようかな~と考えているなどとは思っていないのであろう。

話を聞いて、私は単純にすごいなと思った。同じ年代にして、そういう意思決定をできることに対してだ。

 

私にとって、結婚→子作り→マイホームというフローはもはや人生の”着陸態勢”である。明確な終わりを意識したプロセスであるという点で、プレ終活ともいえるのではないだろうか。私には怖くてできない。私は労働から逃げる隙を伺いつつまだフラフラと飛び回っていたい。

また、先のライフイベントは不可逆性あるいは”難”逆性とでもいうべき性質を孕んでいる。要するに子供を作ってから「あー、ミスった。やっぱ今のなしなし」とは当然できないわけだし、結婚やマイホームにしてもそれ以前の状態にロールバックするには相応のコストを伴う。私には怖くてできない。私は可逆性や保険という安心を常に保持していたい。

 

まあ要するに、修正の困難なストーリーをこの年で書き上げられるのがすごいと思った。精神年齢が低くて労働が嫌いな私には到底真似できない芸当である。

 

日本社会が求める「立派な社会人」になりたくなさすぎる。「立派な社会人」は愛すべき家庭をもち、それのために人生の大半を労働に捧げる。"みんな頑張っているんだから"自分も理不尽に耐えて頑張らなければならない。自分の自由意思はもはや最優先事項ではない。「立派な社会人」はそんな”甘え”に逃げたりしない。

そういうものに私はなりたくない。

 

飲み会を終えて深夜家に着き、Twitterとアニメを見て安堵を得た。ああ、こういうのが私の幸せなのだと思った。

とりあえず当面は、結婚どころか彼女もいない異常独身男性に対する無言の圧力に屈しないように生きていきたい。周りに焦らされて動いたところで、理想と現実のギャップに絶望するのは目に見えている。何かしらの方向に舵を来る日はいずれ来るのだろうが、それは今ではない。飲み会での色々な場面が頭の中でフラッシュバックする中、私は眠りについた。