脱サラしてー(でも金なーい)

おはこんばんちわ~

 

n回目の緊急事態宣言の中、皆さんいかがお過ごしだろうか?

出かけたいけど我慢してステイホームしている?あるいはリスクを抑えながら外に出て発散している?いずれも結構結構、おそらく先は長いので、息切れしない程度に、潰れてしまわない程度に感染拡大防止と自分の幸せのバランスをとればよかろうなのだと思っている。結局のところ、自分の幸せに責任を持てるのは自分しかいないので。

 

さて、私はといえば夏休みを終えて繁忙期に突入し、虚ろな目で通勤電車に揺られながら日々こんなことを思っている。

 

「こんなの間違ってるよ... 人間はもっと自由であるべきだ...」

 

私は人生における明確な目標といったものは持ち合わせていない。幼少期から抱いていた熱い夢も特にない。しかし就職してからは、「もっと”幸せ”になりたい」「自分にとっての”幸せ”とは何か」ということを常に考えているような気がする。

 

会社という列車に乗りこみ、遥か遠くまで真っすぐに伸びる線路と、その終着点の向こうに見える”終わり”を意識したとき、「40年以上もこの生活を続けるのか?それは自分にとって”幸せ”な道なのか?」と自問するようになった。

 

平日5日間朝から晩まで働き、2日ぽっちの休日を挟み、また出社する。これを40年余り繰り返す。忙しい時期には帰宅して最低限のことだけ済ませ眠りにつくことも多い。ともすれば雀の涙ほどの休日さえ奪われることもある。(休日出勤ダメゼッタイ。)企業にとって労働者とは利潤を生みだすための資源の一つにすぎず、その資源をいかに運用するかのコントロール権は企業にある。企業にとっての最適な(利潤を最大化する)資源の運用計画と、労働者にとっての最適な(幸せを最大化する)働き方は当然のことながら一致する保証がない。そして、こうした状況は程度に差こそあれほぼ全ての会社に共通していると思うので、単なる転職では根本解決にならないと考えている。

 

こんなことを言うと「甘い」「もっと不幸な人だっているんですよ!」とお叱りを受けそうだが、まあ実際自分は甘いんだと思う。だが現状に不満を見出し、それを変えたいと思うのは悪いことだろうか?

「もっと恵まれない境遇の人もたくさんいるのだから、自分の境遇に感謝して社会に尽くすべきだ。」という主張もまあ感情的にはわからなくもない。でもそうやって不満を「仕方ない」と呑み込み、それを周囲にも要求することで一体誰が”幸せ”になるのだろうか?私はこうした「贅沢を言うな」という趣旨の負の同調圧力が好きでない。どちらかというと、自分にとって幸せとは何で、もっと幸せになるためには何が必要かを追求していくような姿勢が好きだ。

 

と、ここまで労働に関する不平不満を垂れてきたのだが、別にサラリーマン生活の全てが気にくわないと言っているわけではない。会社勤めをしていると世の人たちが皆サラリーマンであるかのような錯覚を覚えるのであまり実感がわかないが、毎月安定して収入が入ってくるのは自営業に比べて大きなアドバンテージだと思う。また、自営業に比べ、初期投資が少なく済むというメリットもあると思う。(たぶん。)そのほか、仕事に関する時間のうち、1割か2割くらいはポジティブな感情をもたらすものがある(知的好奇心を満たせる時間や仕事が一区切りついて安堵感や達成感を得られる時間など)。

 

以上がタイトルを薄めに薄め異物を混入させて吐き出した文章であるが、結論としては「すぐは辞めないと思うけど定年まで働くはないわ。お金を貯めて&不労所得を生み出す仕組みを整えてそのうち脱サラしたいよ。」ということである。

 

お腹がすいたので続きについては時間とモチベーションが許せば書きたいと思う。

ではでは。